人が恋におちる瞬間をはじめてみてしまった

羽海野チカさんの漫画が好きで、特にハチクロは、大学時代によく読んでいた。美大の学生で主人公の竹本くんが、北海道に自転車で一人旅に行くという場面があって、そのことに触発されて、さすがに自転車では行けなかったものの、鈍行で東京から青森の竜飛岬まで行くという一人旅をしたこともあった。

長く不登校で、大学に入るまでは割と篭りがちでもあり、消えたいという思いもずっとあったから、そのぶん、外に出たときにどこか遠くへ、という感覚がいっそう強かったのだと思う。

ハチクロで好きなシーンはいくつかあるが、たとえば、一巻の冒頭の出会いのシーンもよかった。竹本くんが、芸術において天才的で人見知りの女の子に恋をする瞬間が描かれている。でも、このとき生まれた恋心は、竹本くんの主観で描かれるのではなく、学校の先輩の真山さんの視点から描写される。

ある日、竹本くんたちが大学に行くと、美大の美術史担当の花本先生の後ろに、一人の見知らぬ小さな女の子が隠れるように立っていた。彼女の名前は、花本はぐみ。愛称ははぐちゃん。花本先生のいとこの娘で、春からこの学校の生徒になるのだと先生は彼女を紹介する。

はぐちゃんが、人見知りで、あまり話せずにいると、竹本くんが、意を決したように持っていたコロッケをはぐちゃんに差し出し、「一緒に食べませんか」と声をかける。

その後、みんなでお茶をしているときも、竹本くんは心を奪われたようにじっとはぐちゃんを見つめている。

この瞬間の語り手が、真山さんになっている。竹本くん自身が、一目惚れだったと後々語っていることから、きっと自分でも恋心には気づいていたのだと思う。それでも、もしかしたら、まだはっきりとは確信できずに、徐々に想いが膨らんで確かなものとなっていくなかで、あのとき一目惚れをしたんだ、と思い至り、それゆえに、恋の瞬間は真山さん視点だったのかもしれない。

竹本くんが、持っていたコロッケをはぐちゃんに差し出し、声をかけるシーンでは、この物語の最後に結実するクローバーが舞っている。ふしめがちにコロッケを頬張るはぐちゃんを、竹本くんは真っ直ぐな眼差しで見ている。

その様子を見た真山さんが、心のなかで、「人が恋に落ちる瞬間をはじめてみてしまった」と呟く。流れ星よりもきっと貴重な、美しい、人が恋に落ちる瞬間。のどかな、でも、どこかそわそわした春の昼下がり、物語の始まりを告げる素敵なシーンだった。

誰かが、恋に落ちる瞬間を、僕自身は見たことがない。ただ、自分が恋をした瞬間というのは覚えている。

小学6年生の頃、僕の左斜め前の席の女の子が、僕の落とした消しゴムを拾ってくれたときのこと。まだあまり話したことのない子だったのに、わざわざ取りづらい体勢になりながら、急いで拾って渡してくれたときに、自分のために必死になってくれる存在への不思議な感覚が芽生えた。

僕自身、そのときすぐにこれが恋なんだと自覚していたわけではなく、振り返ってみると、あのときからその子のことを意識するようになった、というものだった。

ちょうどその頃だったか、教科書にあった『赤い実はじけた』という児童文学小説を読んだ。詳しい内容は忘れてしまったものの、小学生の女の子の初恋を描いた話だった。その感情の描写を、「赤い実はじけた」と表現することに、当時の僕は、未知のものに彩りを与えられたような感動を覚えた。

今思うと、自分のうまく表現できない心の動きを、「赤い実がはじけた」と表現しているということ自体が、これまでにない体験で、それは言ってみれば、自分の人生にとって最初期の“詩”との出会いだったのかもしれない。