今自分のなかで乗り越えなければいけないことは、ちゃんと感情を感じる、ということなのだと思っている。悔しかったとき、悲しかったとき、痛いときに痛いということ。本当はなんでもないことなんか全然ないのに、なんでもないような顔をして、やり過ごしたり、だって仕方ないものな、と思いながら、心を麻痺させたりするから、あちこちの痛みもいっそう増していくような気もする。代わりに背負ってくれている。
以前、『ドライブ・マイ・カー』という映画を観た。静かなトーンで、透明の傷が描かれていた。サントラもよかった。今もときどき聴いている。その映画のなかで、主人公の家福が、「ぼくは正しく傷つくべきだった」と言っていた。この言葉が、ずっと残っている。
──ぼくは正しく傷つくべきだった。ほんとうをやり過ごしてしまった。ぼくは深く傷ついていた。気も狂わんばかりに。でも、だから、それを見ないふりをし続けた。
正しく傷つくべきだったことから目を逸らして、そんなことが蓄積して、結果としてより深く自分も、誰かも傷つけてしまうことになる。見ようとすると、扉の前に立たされると、揺さぶられる。心細くなる。耐えられなくなって、つねるようにして違う場所を痛ませる。僕は自分で自分のあちこちをつねり続けながら、いつまでも痛みが引かない、と言っているような気もする。でも、きっとそれでは立ち行かなくなるから、たとえ遠回りであっても、ゆっくり向き合っていく必要があるのかもしれない、と最近思う。
別に大人になっていたわけではなく、麻痺させて、見ないふりをして、自分のなかの違う場所に背負ってもらっていただけで、だから、まずは自分にだけでも、少しずつでも、本当を伝えていけたらいいなと思う。
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