春と男の子

この春はいつまでも寒い、と言っていたのが嘘のようにすっかりと春の陽気で、隣のアパートの敷地にはたくさんのたんぽぽも咲いていた。たんぽぽは、ほのかに吹く優しい風に揺れていた。

ぼんやりと座って、咲き始めた桜を眺めていたら、誰かに僕の名前を呼ばれた。声のほうを向いたら、三輪車に乗った小さな男の子が、こっちがいいと泣きながら、お父さんお母さんが行こうと言っているのと別の道を行こうとしていた。僕の名前を呼んだ声は、お父さんが、その子に呼びかけているものだった。どうやらその男の子は僕と同じ名前のようだ。お父さんは、僕と同い年か、僕よりも若いかもしれない。

それにしても、なんで、あの子は、こっちがいい、と思ったんだろう。何か楽しいものでも向こうにあるのか。それとも、言語化できずに、涙でしか表現できない彼なりの想いがあったのかもしれない。そう思うと、少し不思議な感覚になる。

とぼとぼと三輪車をこぎながら、彼が選んだ道を進んでいく。その後ろを、お父さんがゆっくりとついていった。遠くなっていく二人の後ろ姿。遠のいていく声。

しばらくして、再び泣き声が近づいてきた。顔を上げると、三輪車を右手に持ったお父さんと、お父さんの肩に乗せられ、泣いている男の子が戻ってきた。よっぽどあっちに行きたかったんだな、と思った。男の子はその道になにを感じ、道の先になにを思い描いていたのだろう。